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医療法人社団茜会は、藤田神経内科病院を中核とする医療・保健・介護福祉のサービスを提供する法人です。

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肥沼 信次Nobutugu Koenuma

 肥沼信次は、明治41年の生まれで38歳の若さで亡くなられ、東洋人ではじめてベルリン大学医学部の教授資格を取得した学者です。同時に、ドイツのリーツェンの市民に命の恩人として尊ばれている方です。

 ドイツでナチス政権が権勢を誇っていた時代の1937年(29歳)に留学生としてドイツに向かいました。2年間で5編の論文を発表するという精力的な研究活躍をしました。42年には癌発生のメカニズムに、放射線の影響や突然変異、ウイルスなどが関与していることから、原子力に基づいた統一理論を提案しました。

 44年にはフンブルト・ハウスにおいて重要な講演をされ、「日本における自然科学―欧州の影響と独自の研究結果」と題し、関孝和、山極・市肥沼信次博士川、吉田肉腫など優れた日本人の研究者を讃えています。さらに凄いのは、湯川秀樹がノーベル賞をとる5年前に彼に対し高い評価をしていることです。当時アインシュタインの相対性理論が分かる学者は一握りの方だけと言われたときに、中間子理論を最大限に評価できたのですから、まさに物理学者でもあったのです。

 45年、第2次世界大戦の敗戦直後にドイツで発疹チフスがまん延して、特にポーランドとの国境リーツェンという街ではほとんどの医者は戦地に駆り出され、また残った医者も感染を恐れ、この街に近付こうとしなかったのです。そこに1人の医師が現れたのが肥沼信次という日本人だったのです。東ドイツであったこともあって長くその存在が知られていなかったのですが、90年の東西ドイツ統一される冷戦の雪どけをきっかけに、リーツェンを伝染病から救ってくれた日本人医師「コエヌマ・ノブツグ」を探そうという機運が出てきました。そして、リーツェン市民に慕われ、敬われている墓があることが89年に朝日新聞に記載されました。その記事を目にしたのが、従兄弟の子息にあたる肥沼竜之介氏です。すぐ、信次の3歳年下の実弟である栄治さんに知らせ、間違いないことが分かりました。94年に招かれた栄治さんは市民の大歓迎を受け、「肥沼通り」が計画され、栄治さんが送った桜の木が植えられたのです。リーツェンでは信次を二人目の名誉市民に選び、また栄治さんは「コエヌマ杯柔道大会」の名誉会長に選ばれました。

 その肥沼家の一族である肥沼竜之介は、新潟大學を‘66年に卒業して、神奈川で整形外科医を開業している同級生のひとりです。実は、単に飲み友達と思っていた友が、すごい家系であることに戸惑っておりますが、博士と同じ10月9日生まれなので、博士の心意気にあやかって‘医師とは何か’を探し求めたいと思っています。

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